その判断が可能性を潰すってタイトルをつけたんですが、意味は分かりますか?
取捨選択を誤ると失敗するってことなんですが、その取捨選択をしている自分自身の感情の部分に問題点が潜んでるという意味でこのタイトルにしてみました。
神様でもない限り、人生における全ての選択の場面で常に正しい方を選ぶなんてことは勿論誰にも出来ないと思いますが、結果としていつも割りと上手くいく人と何故か失敗する確率が高い人とに分かれます。
正しいとか、間違いだとかは、その選択をした時には予測や希望的観測でしかなく、結果的に良い結果に繋がれば正しい選択だった、悪い結果なら間違った選択だったと結果を見て最終的に判断するしかありません。
だとすれば、選択する時のあなた自身の判断基準が結果に大きな影響を与えていると言わざるを得ないのです。
何でそんなことしたの?と尋ねたくなるような理解に苦しむ行動をする人がいます。
だって、こんなことになるなんて思わなかったんだもん!
少し考えればこうなることぐらい分かるでしょ!
という様なやり取りが行われます。
では、第三者が首を傾げるような、「何で?」という判断をしてしまうのはなぜでしょうか?
それは、判断基準そのものが、感情によって正確な判断が出来なくなるほど大きく歪められるからなのです。
分かっているけど好きだから止められない
こんなことありませんか?
好きだから止められないという選択する際の甘えは生活の中の様々な場面で涌き出てきます。
もし仮に「美味しそうなケーキ!さっきプリン食べたからこのケーキは明日にとっておこう」って我慢を強いられる場面があったとします。
あなたは聞き分けよく我慢出来るかも知れませんが、人によって「美味しそうなケーキ!さっきプリン食べたけどまだお腹に余裕があるから食べちゃお!」っていう人もいると思います。
ブレーキをかけないといけないって心では思っているのに、ブレーキをかけられないのは、自分の意思でブレーキをかけないという選択をしているからに他なりません。
我慢出来ない=我慢しない
耳が痛い人もいるかも知れませんが、自分がそう決めていることに目を向けないと甘えはスルーされてしまいます。
私はこれを「マイッカの誘惑」と呼んでいます。
誰にでもあるこの誘惑は本当にたちが悪い。人生の大事な選択の場面で間違った選択をさせる甘えを湧き上がらせ、自らの意思を曲げてしまうほどの力を持っています。
ゴミが落ちています。誰もいません。ゴミを拾えば綺麗になるのは分かっているけど、誰かが拾うだろうって判断します。
これも「マイッカの誘惑」です。
頑張ればもう少しで出来るけど締め切りはまだ先だから焦らなくても大丈夫。また今度やろう。
この先延ばしも「マイッカの誘惑」です。
人生の大事な場面では、慎重な選択を求められることがたくさんあります。間違った選択をしないためにも「マイッカの誘惑」には十分注意が必要です。
また、可能性を潰す判断に「好き嫌い」というのがあります。
食べ物の好き嫌いもそうですが、仲良くするしないの好き嫌いや、このタイプの顔は良い人、このタイプの顔は悪い人という第三者の性格を見極める際の判断基準としての好き嫌いもあります。
実際には、顔を見ただけで判断することは出来ませんが、過去にいじめられたいじめっ子の顔に似てたり印象の悪い出来事と紐付いてその時の犯人の顔に似ているという、記憶の中の共通点によって顔から性格を推測しています。
全ての判断基準の源は思考にあります。好き嫌いとは少しカテゴリーが違いますが、正常な判断を妨げる要因として「思い込み」があります。
本当はあなたにとって一生に一度有るか無いかのチャンスなのに、そんなうまい話がある訳ない!きっと自分を騙そうとしているんだ!と誰が何を言おうが疑って受け入れようとしない。
過去に失敗したり、騙されたりした経験からネガティブなイメージを持つことは同じ失敗をしない為にも必要なことですが、真実を見抜けないほど偏ったイメージを持つことはマイナスです。
人生の大事な場面の選択では、自分の頭だけで考えずに周囲の人に相談したり、ネットで口コミを調べたり、総合的な観点で判断し、納得のいく選択をすることも大切だと思います。
私は第三者の意見は参考にしますが最終的に自分が納得出来なければ選択しません。
だから、たとえ選択が間違っていたとしても、自分が判断して決めたことだから仕方がないと思えるんです。
振り返ってみれば、後悔することも沢山あります。あの時疑わずに話に乗っていれば今頃は億万長者だったのに…って
大事な場面の選択ほど慎重になるからハラハラドキドキしますが、経験からいって、考えるのも自分、選択するのも自分、行動するのも自分、だから、その成果に対しての責任も自分にあるという覚悟を持つことが、一番良い判断に繋がるような気がします。