2000年9月5日父が他界しました。死因は急性骨髄性白血病でした。
病気が見つかったのは驚くほど大きな出来事がきっかけでした。
父が、最近何故か手足が痺れた感じがすると言い出して、体に異変を感じていたものの、時間とともに症状が治まるだろうと思っていた日のこと、仕事帰りに父が交通事故を起こしたと警察から電話がありました。
車で走行中にカーブを曲がりきれず、通り掛かりの人様のお家に車で突っ込み、塀に激突し、フロントガラスを突き破り、その家に停めてあった車のボンネットの上に叩きつけられるように落ちたというのです。
事故の現場に駆け付けた時には救急車で運ばれた後で、現場を見た私は恐らく父は助からないと思いました。
それだけ父が運転していた車は大破して、落ちた先に停めてあった車の上には、血が飛び散り大きくボンネットが凹んでいたからです。
病院に運ばれた父の部屋に警察官がいました。驚いたことに父と会話していました。「どうして事故になったの?」と警察官に聞かれ父は「わからない」と小声で答えていました。
後で分かったことですが、父は事故の前後の記憶が全くなく、医師によると、事故直前に意識を失くしたのではないかと言われたのです。
事故の時に意識がなかったからこそ、体に無駄な力が入らず、柔軟なままフロントガラスを突き破ったので、事故による怪我が軽く済んだのではないかと言われました。
ではなぜ、父は事故直前に意識を失くしたのか?事故後の診察で父が手足が痺れるようになったことを医師に伝えて、検査をしたところ父は脳梗塞の発作により意識を失ったことが分かりました。
父は運転が上手く、無事故無違反で表彰されるほどの腕前を持ち、誰もが「事故をするなんて信じられない」というほどなのです。「意識でもなくさない限り事故なんて起こさない人」と、みんな口を揃えて言います。
しばらく全身打撲で入院したものの、父は元気に退院しました。
ただ、右手が事故前に比べ動きづらいという脳梗塞の症状を発症していましたし、思うように言葉が出てこないことにより、伝えたいことが伝えられないもどかしさに苛立っていました。
退院後の父は職場においても、脳梗塞だから健常者のようには動けないという周りの方のご理解によりサポートをして頂きながら就業していました。(本人は足手纏いになっていることを気にしていましたが・・・)
段々右手右足が不自由になる中、いつも治療に通っている病院から検査結果を説明したいと連絡を頂きました。
私と母が病院に出向き、そこで医師から、父が脳梗塞だけではなく、白血病も発症していると告げられました。
余命半年です。
医師が告げたその言葉に対し「人の寿命なんて第三者が決められるわけがない」と内心信じたくない思いでしたが、父の診断結果の数値から過去の症例を見て判断した結果だと言われました。
私たち夫婦に子どもが授かり、膝の上に孫を乗せて可愛がる父の写真が今も残っています。自分の命があと半年だと宣告されたことも知らずに、父は「絶対に病気は治す」といつも口にしていました。
抗がん剤の是非については賛否両論ですが、闘病生活の父が一番苦しんだのが抗がん剤の副作用でした。
白血病の治療法としては骨髄移植が最も有効で治癒の可能性が高いと医師から説明を受けましたが、その当時、父の年齢は骨髄移植の患者の年齢制限を超えており、移植しても完治するかどうかわからず、限られたドナーから提供された骨髄液を無駄にすることはできないと医師から説明を受けました。
治療方法が限られている中、父は、抗がん剤の投与で吐き気に苦しみ、日に日に痩せこけ、一気に10歳ほど年を取ったように見えました。
何とかならないのか?という家族の訴えに対し、化学療法や放射線療法を伴う造血幹細胞移植【骨髄移植(フル移植)】は、肉体的な苦痛が大きく、55歳までが上限なので、当時57歳の父にはフル移植は耐えられないのではないかという判断から、より苦痛の少ないミニ移植を提案して下さいました。
その当時、ミニ移植は、本人の負担が少なくて済むのと、およそ70歳までの高齢の方までが適用範囲になることから、 ドナーを待つ(フル移植)ではなく、身近な家族や親族から適合者を探し、完璧な適合ではないものの、症状の回復や治癒に結びつくかも知れない方法と言われていました。
息子の私は、真っ先に適合するかどうか調べてもらいましたが、父との適合割合が低いこと、骨髄液を採取する際に僅かながら施術ミスの恐れがあり、今後、腰に相当な負担を背負う身体になってしまう可能性があるということの説明を医師から受けました。
家族で治療について話し合いましたが、母の強い反対によりミニ移植を諦めることになってしまったことが、父が亡くなってから20年近く経った今でも、なぜあの時、父のためにリスクを冒してでもミニ移植をやらなかったのか?という後悔の念が残っています。
父は厳格で、私にとってはいつも怖くて話しにくい存在でした。それだけに与えられた余命半年という期限付きの時間を父と精一杯向き合いたいと思いました。
病室に寝泊まりし、何も話すことは無かったものの、「喉が渇いた」「背中がかゆい」「トイレに行きたい」正に私は付き添いとして父と一緒にいました。
父が昏睡状態に陥った時、うわ言で「俺は絶対に・・・」と言いました。
何と言ったか聞き取れなかったのと、何度も言うもののそのフレーズだけを繰り返すだけで続きは言ってないように思います。
負けず嫌いの父のことですから、「俺は絶対に病気には負けない」と言いたかったんだと思います。
57歳の若さで亡くなった父は、生きていれば76歳。今でもその年齢の方々に父の面影をだぶらせることがあります。特に男性の方に父に対するものと同じような親近感を感じます。
あと4年程で私は父の亡くなった年齢に達します。もし私がいま余命宣告をされたとしたら、きっと後悔ばかりだと思います。あれもしたかった、これもしたかった、もっと~しとけばよかった、など。
そうならないように父の葬儀の時に「いまを懸命に生きる」と誓ったはずなのに全然出来てない気がします。「俺の人生楽しかったなぁ」「もう一回人生をやり直せるならまたこの人生がいいなぁ」「みんないままでありがとう!」と死んでいきたいと、理想では思っているんですが、それとは逆に後悔ばかり口にしそうです。
私が学んでいるマインドフルネスの基本は「いま、ここ」に集中することです。
いまからでも決して遅くはない。後悔しない生き方をするために、私はいま自分にできる事を一生懸命やりたいと思います。
次の世代の子どもたちに「父は大往生だったな」「やりたいことを全部やった人だったな」「俺も自分にできる事を一生懸命やるぞ!」と思ってもらえるように見本を示したいと思います。それが本来の親の役割のような気がします。