視座

視座という言葉をご存知でしょうか?分厚い辞書には「物事を認識する時の立場」「物事を見るときの姿勢や立場」と書いています。

視座の視は「みる」とも読みます。「みる」と読む漢字は、視るの他に、見る、観る、看る、診る、などと何をみるかによって使われる漢字が違っているようです。

では「視る」という字は何をみる時に使われるのでしょうか?

視るという漢字は、注意して見る時に使うようで、見る力(視力)と言われるように、ただ漠然と視界に入るという意味での見ると違い、対象物を凝視するなど、目の力を凝らして懸命に視るという意味合いで使われるようです。

物事を認識する時にあなたの立場であなたが判断したようにあなたの目に映ります。

その見方に意味を持たせるのはあなた自身なので、あなた以外の人にはあなたが見たように映らないということを忘れがちです。

500㎖のペットボトルの中に入った液体は、無色透明なら大部分の人が水と判断します。

更に、その液体を少し抜き取り置いておくと「飲み掛けの水」になります。半分しか入ってない状態で置いておくと「半分しか残っていない水」と判断する人と、「まだ半分残っている水」とに意味合いが変わります。また、それを見ている人の心理状態や体調で判断の仕方が変わってきます。

一日中炎天下を歩き回って水分補給が出来ていないときに、その水を見ると「美味しそう」に見え飲みたくなります。

さっき大量の水を飲んだ人の目の前に置くと、何も興味を示しません。出来れば飲みたくないと思います。

朝からずっと水ばかりを飲んでいる人も「また水かぁ…」と思ってしまいます。

量に関して言えば、喉が渇いている人には「半分しか入ってないけど飲みたい」と思うでしょうし、喉が渇いていない人から見れば、「まだこんなに沢山残ってる!水なんてもう飲みたくない」となります。

「実はこの水、日本名水百選に選ばれた水で、人が決して立ち入らない自然の中の洞窟の奥で採取されていて採取できる量も一日数リットルに限定されています」と言われれば、根拠もないのに貴重な水と思えますし、「実はこの水、元は川の底にヘドロが溜まったどぶ川の水なのですが、ろ過してどこまで美味しくなるかという夏休みの課題で生まれた水で、実験には地元の小学生が取り組んでいます」

持たせる意味合いは、何通りにも出来ますが、この「意味付け」というのは、人生のあらゆる場面で非常に役立ちます。

自分が販売している商品にも、お客様が欲しいと思うように意味付けすることは、販売手法として当たり前の策です。
さらに面白いことに、誰がお薦めしている商品なのか?いつ発売されたものなのか?世間の評判はどうなのか?売れ行きは?など、追加の情報が多ければ多いほどその商品のイメージが膨らみます。たとえ嘘でも。

「アラブの石油王が偶然見つけた」「数千年前の地層からしか取れない」「一日に数㎖しか採取されない」となれば、稀少性や発掘の難易度が商品価値を高めます。

「有名な数学者が開発した恐ろしく精密な計算に基づく失敗のしようがない再現性」「誰がやっても必ず同じ数値がはじき出され同じ結果が得られます」となれば、緻密な計算により失敗の確立が極めて低く成功の確率が高いように感じます。

言葉ではなく、文字による説明は視覚を使います。言い換えれば、言葉は耳から入ってくることが多く、口から伝えられた記憶は耳を通じて音として記憶に残ります。音楽もそうです。何か聞いたことがあるという記憶は耳から入った音が記憶に残っているものです。

英語の教科書に書いてある文章を、英語の発音で耳から聞くと効果が倍増します。目で文章を追いながら耳から発音を聞くと、単語に音が上乗せされます。「あ~!この単語はこういう風に発音するのか!」という発見があります。

それだけ目で見ることと、耳で聞くということは、記憶にとって重要なツールになっていると言えます。

それだけに目に入ってくる情報をどこまで細かく見るかということが重要になってきます。

車で走行している時は同時に沢山の情報を処理しなければなりません。前の車との車間距離や信号の色、すれ違う車との幅、ドアミラーやバックミラーに映る後続の車やバイクの状況、運転中は歩道を歩く人の姿がぼんやりと目に入るように、見方によってはっきり見える時と流れた景色の一部として見えるときに分かれます。これが目に入る「見る」と焦点を目標物にちゃんと合わせて「視る」の違いなのです。

今日面談した男の人はネクタイをしていましたか?また、そのネクタイはどんな柄でした?
歩いて駅まで向かう途中に自動販売機はありましたか?何色の自動販売機でしたか?

私たちの生活の中で見ているけど視えてないことって沢山あるんです。

これをあえて注意して視るように工夫すると今まで見えていなかったものが視えてきます。

私は注意して視なければいけないモノに遭遇した時に心の中で「フォーカス!」と呟いています。そうすると意識的に集中力を高められます。(老眼なので注視しなければ視えない時がほとんどですけどね…)

見ると視るの違いは何となく理解できたと思いますが、視座という言葉は、どういう風に見えるかという、見え方や姿勢の他に、どのような「立場」で視るかということが、大きく関わってきます。

自分自身の立場を考えるときに、自分が作り出した枠組みが大きく関係してきます。

枠組みとは、自分の帰属意識や立ち位置(ポジション)を鑑みて自らが作り出した目に見えないフレームのことを言います。

男として、父として、思春期の子を持つ親として、PTA役員として、平社員として、お客様にサービスを提供する立場の者として、経営者として、B型として、野球経験者として、それぞれのフレームから物事を見た時にそこにあるルールや物事を見る捉え方や解釈の方法により視え方は異なります。

「どの立場でモノを言うのか」という、フレームの選択の仕方を間違えると、目上の人にタメ口をきいてしまったりします。話をしていて「カチン」とくることがあるのは、大概がフレームの選択間違いによる言葉の選び方のミスによるものが多いと考えられます。

クレームを言う人ならよくわかると思いますが、自分が言われる側になった時に絶対に言われたくない逃げられる逃げ道を全て塞がれた完璧なクレームというものがあります。どの立場でモノを言うかという選択の部分のミスを徹底的に責められます。

また、クレームを言う人の中にはクレームを言われた時の処理が上手な人が多いのも統計で出ています。言う側と言われる側の双方向の気持ちが手に取るように分かるから自分の中で言葉を選んで話すことが出来るのだと思われます。

私は、どの立場に立って物事を視るのか?物事を出来るだけありのまま、あるがままに、私情を挟まずに偏った意味を持たさずに視れるように努力していきたいと思います。

そうすれば真実をありのままに視ることが出来るようになるでしょうし、相手の気持ちを的確にとらえられる人になれるような気がします。

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